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学校生活や授業など,ひとりの教師として考えてきたことややってきたことを書いています。
若い先生方の参考にしていただければうれしいです。
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その275 小学生の駅伝への私見

2017/02/12 13:43
今日は京都市の小学生の駅伝大会の日なんだそうです。
先日の「都道府県対抗女子駅伝」はえらい吹雪で本当に気の毒だったから,そんなことにならなければいいなあと思っています。
宝ヶ池の辺りはけっこう寒いし,この間からの雪が残ってたりするかも。

今年で31回を迎えるそうですよ。
でも私はこの大会を好ましいと思ったことは一度もありません。
とくに「支部予選会」というものができて,それを勝ち抜いた2〜3校が本大会に出場できるという形になってからは(初めのうちは「輪番制」だったと思います)

「予選会」には6年生になったら必ず参加しなければならない。
「あ,うちは今年はやめておきますわ」ってなことは許されないのです。
そして出場するからにはみっともない走り方をする(させる)わけにはいきませんよね。
「勝たんでええやん」と言い放つだけの胆力は私ごときにはないのであります
で,「予選会に向けての練習」が必須となります。

勝ち負けがかかる以上(そして勝った学校だけが本大会出場というわかりやすい形になっている以上),「勝ちに行きたい」と子どもが思うのはまあ致し方ない。

でも,それ以上に「勝ちに行きたい担任」とか「体育主任」とか「管理職」とか「保護者」とかの思惑の方が複雑に交錯して,なかなかしんどいことになります。

常勝の学校にはたいてい「勝たせる指導者」ってものが存在します。
それが春の異動で動くらしいとなると「○○先生が今年あの学校になったから,あそこは今年強くなるで〜」みたいなことが聞こえてきます。
そして,そういう先生が来なくても,そういう先生の「指導の仕方」があれこれ広まります。

いつから練習を始めるのか。
6年生になってからでは遅いらしい。5年生から。いやスポーツ少年団みたいな形をとって,4年生も参加しているらしい。
そんな話もよく聞きましたけれど,私は6年生を担任した時には一番早くても春の運動会が済んでからかなあ。
この時は,私以外の担任が熱心だったからね。
でも「熱心な人がやったらええやん」なんて押し付けたらあかんので,一緒に,あるいは交代で,練習に立ち会いましたよ。
夏休みもずっとですよ。
メンバーはまだ絞り込まない。参加したい人は参加してね方式で。

こういうことにも,例えば保護者の方たちから「去年の先生はもっと熱心にやってくれたのに」といった声が聞こえてくることもあるわね。
そりゃまあ,それ一本に情熱を傾けてると見受けられる先生もいるけれど,他の担任の仕事もしっかりやろうと思えば,そればっかりに時間を使うわけにはいかへんと私は思うけれど。

そして大会に出場するのはほんの一握りの子どもたちで,そこには出ない子どもたちの日頃からの指導にも私たちは責任を負っているわけで。

一方「じゃあ,熱心に指導・練習すればいいのか」ってことについてなんだけど。
「走らせ過ぎ」の問題もよく見聞きしましたよ。
走らせ過ぎてひざやかかとを痛めて,結局出場できなくなる子どもとか,そのあとの治療に時間がかかることになってしまった子どもとか。
大会要領の説明会でも「走らせ過ぎ」についての注意もありましたから,そんなに珍しいことでもなかったんじゃないかな。
走りの指導のエキスパートでもない担任が「予選会を勝ち抜きたい」というあちらこちらの思惑の交錯の中で,おしりに火がついた状態で指導を担当するんですから,よほど気を付けないとね。

大学生や社会人の駅伝で近頃流行りの「一秒を削り出せ!」みたいなことを子どもたちに求める大人たちがいないとも限らない。
「やればできる」病がここでも懸念されますね。

骨も筋肉もこれから作っていく時期の子どもたちに無理な要求をしてしまう危険があることに自覚的でないと。

書き出したらまだまだ書いておきたいことがあるんだけど,長くなるので今日はいったんここまでで。
今夕には今日の本大会のテレビ放送も,毎年通りあるらしい。
そこではたぶん語られないようなこの大会の「ウラ」のしんどさをもうちょっと書きますね。


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その274 不断の努力

2017/02/04 13:19
「立春大吉」お久しぶりです。

ブログ開始6周年を過ぎました。
去年は父が亡くなったこともあり,それにもまして国政があまりにあまりなことですっかり鬱陶しくなったこともあり,1年間で7つしか記事書かなかったのね。
ブログ始めてからずーーーっと,世の中が私の考えるところに「嫌な方」へ向かっていると書き続けてきたんですけど,ここにきてそれがこの国だけのことじゃなくなってきました。

で,私の塞ぎこみは悪くなる一方なんだけれど,自分が高校生の頃に世界史を勉強しながら「人間って,まだまだなところにいるんだなあ」という感慨を持ったのを思い出しました。

戦後の民主主義を,様々な歴史を経てやっとここまでたどり着いて,それを私たちは受け継ぐべく学んできたと思っていたけれど,蹴散らかされるときはあっという間ですね。

蹴散らかしたい人,たくさんいたんですね。

なんでも,作り上げるときは時間も手間もかかり根気のいる作業なのに,ぶっ壊すのはあっという間。

だから,私たちの憲法には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と書かれてあったんですね。

取り上げられないように,壊されないように,常日頃からそれを守り進めるべく『不断の努力』がいるんだと。

してなかったな〜。油断していたな〜。  

反省していますよ。

ブログ,もういいかな…って思う瞬間もあるんだけれど,まだ毎日見に来てくれる人がいらっしゃるし,ずいぶん前に書いた記事に「気持ち玉」入れていってくださることもあって,誰かのお役に立っているならもうちょっと続けるかな,とも思う今日この頃です。

で,私は私の立ち位置から「自由と権利を守るべく不断の努力をするよ」と7年目開始に宣言して,もうちょっとだけがんばります。

そうそう,鬱陶しいことが多い中で少しだけいい方向だと思うのは,LGBTについての理解がほんの少しだけだけど進んだことと,学校の先生たちの働き方(部活指導だけじゃなくて)があまりに「ブラック」だということが,これも少しだけ言われるようになってきたこと。

これについてもまた書きますね。


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番外編 胸の塞ぐ思い

2016/12/15 16:36
二つ前の記事「番外編」で「気を取り直してまた書きます」と書いたのに,嫌気はさらに増大するばかりで,もう今年中に立ち直れないかも…と思いつつ,今日は書いています。

シリアの情勢があまりに酷い。大量虐殺といってもいいほどだとか。
そこへのロシア軍の関わりがあんなに取りざたされているのに,その国の大統領が今日来日だということに日本のメディアは騒いでいます。
来る時間が遅れるんだとか,およそ交渉などまとまりそうにない領土の話だとか,かの大統領のお人柄だとかをどの局も繰り返し報じますが,国際社会からはどんなふうに見られているんでしょうね,日本。

沖縄の米軍基地問題も,そこへ各地から派遣される機動隊のふるまいや関係閣僚の言動も,そこに暮らしている人たちのことを思うと本当に胸の塞ぐ思いがずっと続いています。

原発事故で避難してきた子どもたちへの仕打ちにも心が痛みます。
でも,大人たちの社会がヘイトまみれなこの国では,現場に心ある大人たちがいつもいてくれるとは限らない情けない社会なんだということを今改めて思います。

そして,国会の惨状。
ニュースで切り取られているところだけ見ている人にはわからないだろうけれど,本当にひどい態度の閣僚・議員がたくさんいるんですよ。

そして,大事なことを確かな言葉で伝えないメディア。
「墜落」じゃなくて「不時着」
「戦闘」じゃなくて「衝突」

きっとあの時の『「退却」ではなく「転進」』も,これと同じような理屈だったんだろうなって,今やっと実感としてわかる。

先の戦争がなぜ止められなかったのか…みたいなことを子どもの時からよく聞いたけれど。
その反省を忘れず…ってのもよく聞いたけれど。

気が付いたらもうそれとおんなじことになっていってるやん。

反省なんかしたくなかった人たちが,少しずつ権力を握る方面に勢力を伸ばしていたんですね。
まさか,もう一度あんなゆがんだ時代に戻りたいはずがないって,漠然と思い込んでいた私がうかつだった。
戻りたい人たちはいたんですよね。

もう私にとってはテレビでお笑い番組や話題のドラマとかやっていても,心から楽しめない時代になっちゃった。こうやって,庶民を笑いやゴシップで目隠ししながら,見えないところでお金と権力をつかんだ人たちの思うように運ぶ世の中が作られているんだろうなと思ってしまう。

だからこの頃はテレビを消して,本を読んだり手仕事をする時間が増えました。
(で,ブログの更新からも遠ざかっていますっていう言い訳…)

自分のささやかなお楽しみに使っていたお金を削って,少しずつでも寄付に回したいと思います。
この間は入学を前にしてランドセルや制服が買えない子どもへのカンパというのに参加しました。
この国のお金の使い方に怒りながら。

さて,ただの愚痴で今日はおしまい。
復活はあるのでしょうか。
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その273 「文句を言う子」を育てたい

2016/11/04 21:11
国会が酷すぎて,情けなさすぎる。
それを伝えないで他国の大統領のことばっかりやってるマスコミも情けなさすぎる。

ルールも何もあったもんじゃない。こんな国会運営で国の方向が決まるんですぜ。
まるで小学校の意識低い系の担任の元での学級会みたいじゃないの。
十分な話し合いもしないで「多数決で決まったんだから文句言うな」ってヤツ。

一方で五輪に万博に何千億円って話が毎日のように飛び交って,もう一方で予算がつかないからって給食を取りやめられる子どもたちがいるの,おかしいでしょ。

毎日この国のやり方に呆れてますよ。

でもまあ,国政は横において。

給食の中止を余儀なくされた学校の先生と子どもたちのやり取りをTVでやっていたんですけどね。
「…ということで,給食を取りやめることになりました」みたいな話を教室で子どもたちにすれば,もうお約束のように「えーーーーーーー!!!」って来ますよね(学校あるある)

あれ,ホントにはかったように声のトーンまで合わせてやってきますよね。
私なんか,そういうの来たら「はい,ありがとー。それでね…」って感じで進めちゃう。

オトナの都合で突如給食(決して授業ではない)の中止が突如告げられたら,まあそう言いたくなる気持ちもわかりますからね。

でも,TVの画面に映し出されたフリップには担任の先生の「文句を言わない!」って文字が。

いや,担任の先生の気持ちもわかるんですけどね。
自分の落ち度でもないからね。
出来ればこういうことを子どもに告げる矢面には立ちたくないはず。
内心は自分だって「文句」を言いたい気持ちかも。

だからね。今日言いたいことは「『文句を言わない!』って押さえつけるの,止めませんか?」っていう提案。

「そーやんなー,文句の一つも言いたくなるやんなー。」って,子どもたちに素直に言えばいいのに。

んで「なんでこんなことになったのかと言うとやな…」って,給食中止までのプロセスを子どもたちにわかるように説明すればいいやん。(子ども向きにアレンジする必要はあるかもしれないけど)
そうしたら,子どもたちも「先生に文句言ってもしかたないな。」っていうこともなんとなくわかるだろうし,自分たちの給食ってのがどういう仕組みで成り立ってるのかも少しはわかるんじゃないでしょうか。

「誰にどういう文句を言うべきなのか」までいけば面白いけどね。

つまりこういうことって,子どもたちが「社会」ってものを考える一つの契機になると思うんですよj。
世の中,こういうことになっているんだなあと実感できるチャンスでしょ。

それを「こういうことになりました」→「文句は言わない」→「では次」ではねぇ。

「文句を言わない!」は学校で(あるいは家庭でも?)多用されますよね。
「言うことをききなさい!」の変形だな。

でも,「文句の言い方を教える」っていうの,私は大事だと思っていますけどね。
学年によって教えることは違ってくるけど。
「アサーティブにNoを言う力」って,前にも似たようなことを書きましたっけね。

疑問があれば尋ねることも,不満があれば表明する(理性的にね)ことも人として大事な力でしょう?

昨今みたいな世の中になってくると,より一層そういうことを子どものうちから意識して身に着けていないと,身勝手な人たちに文句の一つも言えないまま人生ワヤにされてしまう危険すらありますよね。

「文句ひとつ言わずに自分に従う子」なんて育ててはいけませんよ。


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番外編 仕切り直し

2016/10/01 11:36
お久しぶりでございます。
ずいぶん長い夏休みを取っているうちに,10月になってしまいました。

世の中のあれこれに,すっかり嫌気がさして日常生活に埋没しておりました。

で,もうフェイドアウトしてしまおうかとも思ったのですが,当ブログにアクセスしてくださる方は途切れず,ありがたいことだと思う一方で,学校での仕事にしんどい思いをする人たちがたくさんいらっしゃるんだろうとも思われて,もう少し駄文を書き続けるかと思い直している次第です。

で,今日は仕切り直しをするためのしおりのような気持ちで書いています。

この夏一番考えさせられたのは,あの方の「お言葉」でした。

もともと,あの一家だけには「基本的人権」が保障されきっていないことをお気の毒に思っていたのでした。

お子たち世代は「もはや戦後ではない」と言われた新憲法下で生まれ育ち,戦後の教育を受けているにも関わらず,私に保障されている「自由」や「権利」があの方たちにはないんだなあということが,私なら納得いかんなあと昔から引っかかっていました。

でも,あの方から「個人として」とか「私の家族」という言葉を聞いて,しみじみしてしまった。

そのことを,「象徴だ」っていってる国民のどれだけの人が考えていたんだろうなって。

大学での「象徴とは」っていう講義,なぜか今も覚えているんだけど,つくづく「いい加減な講義だったよな〜」と今は思いますね。
あれ,大学の先生たちもちゃんとは考えていなかったんでしょうね。

ご本人は一途に「象徴とは何か」について日々考えながら行動してこられたのに,国民はそれを任せた(背負わせた)ままで,自由と民主主義を手に入れたってことでそこのところを一緒に背負うことなく「戦後」を過ごしてきたんでしょうかね。

で,あんなに精一杯な感じのする「お言葉」なのに,根本的な問題には触れずに済ませようって雰囲気になりつつあるようですね。

そうやって,「本当に考えなくてはならないことは何か」ってことからは目を逸らして,「目先の利益」や「とりあえずの心地よさ」ばかりを追っかけていることが,今の生きにくさを招いているような気がしますよ。

そして「生きにくさ」は,弱い立場の人たちにより押し付けられるものなんだなってことも,つくづく。
ということで,気持ちは塞ぐばかりなわけでございました。


さ,なんとなく澱のように心の底にたまっていたものを少し吐き出した気がするので,気を取り直して次回からまた学校ネタに戻って書いていこうと思います。

お暇なら,みてね。
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番外編 暑中お見舞い申し上げます

2016/07/24 13:43
京都は今年も暑いよ〜

さて,「ポケモンGo」もうニュースだけでお腹いっぱい。
初めからなんの興味もないんだけど,子どもよりは大人があんなにはしゃぐものなのかと呆れかえっています。

これって,伝家の宝刀「経済波及効果」への期待が大きいからなの?
それとも純粋にゲームが面白いからなの?
あるいは「ブームには乗り遅れるな」ってことなの?

自分がこういうことになんの影響も受けない環境なのをありがたく思いますよ。
これが現役の小学校教師なら,知らん顔で済ますわけにはいかないでしょうからねぇ。

こういうことで大人たちがわーわーはしゃいでいる裏で,沖縄のヘリパッドの問題やら,南スーダンの情勢やら,もんじゅの点検漏れやら凍らない凍土壁のことやら,自民党の「密告フォーム」のことやら,本当はもっと詳しく知りたいことが後回しにされ,矮小化され,「気にならないこと」にされてしまうのがなんとも…。

いやもっと身近なことで私たちが本当はよく知って考えたり行動したりすべきことがあるのに,目先の「面白いこと」に目を奪われているうちにそういうものから目を逸らされてしまっているんじゃないかという気がしています。

「パンとサーカス」って,まさに。

なんだか,もう大勢の大人たちが魂抜かれてるんじゃないかって,ちょっと気がかりになっている今日この頃です。
時間があればとりあえずスマホを触るっていう人,いっぱいいますよね。
「ぼんやりする」中で自分の考えを整理するっていうことは,私にとってはとても大事なんですけど,そういうことももう奪われているような時代ですね。

子どもたちに「ぼんやりと過ごす時間」(実際は記憶や思考の整理をしている時間)の大切さを説いてくれる先生たちがまだいることを願っています。

ま,アメリカではあのゲームは「もうピークは過ぎた」っていう報道もあるみたいですけど。さもありなん。

皆様,暑い折,くれぐれもご自愛くださいね


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その272 「任せておけば悪いようにはしない」を疑う

2016/06/28 10:23
お久しぶりです。
何やかやとつまらない用事が多くて,日常の些事に埋没しておりました。
時々見に来てくださっている方に申し訳ないことでございます。

さて,来る参院選。選挙に行かないとね。

社会科専攻の教師だったので,選挙権を手にするまでの歴史を教える側なんだし,権利は行使しないといつの間にか奪われる危険さえあると思うから,どんなに「入れる意欲が沸かない選択肢」の際の選挙でも必ず行くことにしています。

でも最近の選挙や住民投票などの投票行動にまつわる報道などを見ていると,「負けるとわかっている人には入れたくない」みたいな人が結構いるんじゃないかと感じるんだけれど,杞憂かしら。

自分の主義主張ではなく(そんなものはないからかもしれないけど),「自分の一票を入れたほうが勝つ」ことの優越感を味わいたいんじゃないかと思うのは偏見?

まあ,それは置いておいて,選挙に行って一票を投じたとしても,その後は選ばれた議員や首長がちゃんとやってくれるだろうと任せっぱなしにしておくと,トンデモないことになるっていうのももううんざりするほど思い知らされましたよね。

公約やらマニフェストを掲げて当選した人たちが,当選後どういう活動をしているのかをちゃんとチェックすることを怠ってはいけないんだなあとつくづく思います。
でもみんな,日々の仕事に追われているからそういうことってなかなかできませんよね。
でもでも,そんなだから「当選してしまえばこっちのもん」みたいな人たちが横行するんだろうけど。

で,思うんだけど「任せてくれたら悪いようにはしないから」っていう言葉にうっかり甘えて,任せた人の活動をチェックしないで安心してしまうってのはよろしくないですよね。

選んだ責任ってのも自覚しないとね。

でも,そういうことって子どもの時から鍛えられていますか?

そう。言いたいのはここなんだ。

「先生(親・大人)のいうことを聞いていれば,間違いないから」みたいな言い方をして,子どもに服従を要求していませんか?

複数の選択肢から選ばせないで,「これにしておきなさい」とか「あなたのためを考えて言うんだよ」とかやっていませんか?

子どもに無駄な苦労をさせたくないという「親心」のようで,実は大人の都合を優先させているだけじゃないですか?

そういうことにホイホイ従う子どもを育てていると,指示する大人は楽でいいし,従う方もあれこれ考えずに指示に従ってさえいればそう大きな失敗や間違いもなく成長していけるのかもしれないけれど,「自分で考えて選び取る力」は決定的に削がれますよね。

教室での日々の些事の中に,そういう「いちいちゴチャゴチャ言わずに先生の言うことに従いなさい!」みたいなことがたくさん溢れているでしょう?

確かに有無を言わさず指示しなくてはいけないこともあるんだけれど,「教師側の都合で子どもの主張を封じ込めてはいないか」って自己チェックを忘れないことも大事ですよね。
そして,その言い分に耳を傾けてみるとか,他の子どもの考えを聞いてみるとか,教師側の考えを説明してみるとか,そこで初めて子どもたちの考えが豊かに広がっていくはず。

そういう手続きをすっ飛ばして,とりあえず手早く効率よく学習内容を注入しようとするような指導が見た目に成果を上げているようにもてはやされる傾向があるように思えて,なんだかなあという気分でいます。

無自覚に,子どもたちが「考えて,選び取る」力を日常的に奪ってしまっていないか,振り返ってみることは無駄じゃないと思います。
そのことが「指示待ち人間増加」につながっているんじゃないかって。

周りの人と,地域と,国と,世界とつながる「グローバル人材」育成といいながら,やってることが「任せてくれたら悪いようにはしない」では,ね。

んで,私はとりあえず選挙には行くことと,うちの市議会の傍聴ってやつにも出かけてみようかと思っています。

今回の選挙は政権選択ではないので,何はともあれ与党で2/3議席ってのを阻止する側に入れるつもりです。

ではでは次はもっと早く更新するべく努力いたします。
日常に政治を持ち込まなくてはえらいことになりそうな情勢になってきたみたいだし,皆さんもせめて投票には行ってくださいね。

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その271 「学習支援ボランティア」ってやつ 

2016/05/06 17:21
お久しぶりです。
4月に入って突然父が入院し,一週間で亡くなってしまいました。
残された母の生活をサポートしながら彼女の代わりに手続きのあれこれに動いているうちに5月になってしまいました。

「ちっとも更新されないな」と思いながら時々様子を見に来ていただいていた皆様がいらしたら,申し訳なく思います。
そろそろ始動しないと…と思いつつ,ずるずると日延べしていたのですが,そんな私の元に一枚の「回覧資料」がやってまいりました。

それは私の住む自治体の教育委員会が出した「学習支援ボランティア募集」の呼びかけプリントと,登録申込書でした。

「こんなん,来てるで〜」と夫が見せてくれたそのチラシを見て,ちょっと呆れちゃった。

そこに書いてあった「支援内容」が,もう。

・コンピュータ授業の学習支援 
・理科実験補助および植物教材の栽培支援 
・家庭科調理実習補助およびミシンの使い方補助 
・図工の作品制作支援 
・美化作業(花壇整備 落ち葉拾い 草むしり他)
・登下校の見守り

だって。

「美化作業」や「登下校の見守り」は,まあわかりますよ。

でも「コンピュータ授業の学習支援」や「理科実験補助および植物教材の栽培支援」や「家庭科調理実習補助およびミシンの使い方補助」や「図工の作品制作支援」を「地域のボランティア」がやるのん?

私や夫が勤務していた京都市の小学校では,こういうのはちゃんと非常勤の講師の先生が来てくれていましたよ。
それも,教職経験の豊かな方や,学生さんでも各教科を専攻している人が,ちゃんとお給料をもらって仕事してくれていましたよ。

「学習支援」は,そんなに簡単なものではありませんからね。

学年ごとの子どもの特性や教科の特性に理解のある人でないと,担任をサポートして子どもたちの学習の質を高めることなんてできないじゃありませんか。

ほんとうに子どもたちへの学習支援のために人を増やそうと考えるなら,それなりの予算をつけて,非常勤でもちゃんと「先生」を増やすべきではありませんか?

それをボランティアで,つまりは「タダ働き」でやろうとするなんて,ひどい話ですよ。
地域に住む,それなりの経験や素養のある人を教育現場に迎えたいなら,それなりの報酬を準備すべきですよね。

ここの自治体が子どもの教育をどれだけ大事に考えているか(考えていないか)わかっちゃうってもんです。

一方で,学校側もこんな募集で来る人たちを本当に求めているのかな。

私が担任なら,「小学校の授業の手伝いぐらいならできるだろう」と考えるような素人のお手伝いさんに来てもらっても,子どもたちの現状やしてほしい支援のカタチを説明するのにきっと苦労するだろうなあと思ってしまいますよ。
(実際に英語教育のボランティアさんに苦労したハナシは前に書きましたよね)

それとも,「どんな人でもいないよりマシ」ぐらい現場は切羽詰まっているんだろうか。
(それなら余計にもっと予算を付けるべきだと思うけど)

自治体にお金がないわけじゃないと思いますよ。豊富ではなくても使うところには使ってるみたいだし。
ただ,使いどころが「教育」方面ではないっていうことですよね。

だいたい教育にカネを使いたがらない風潮がもうずっとあるけれど,何かにつけて「ボランティア」だとか「寄付」だとかばかりで現状を手当てしようなんて考えで,教育の充実を目指そうなんて,ちゃんちゃらおかしいわ!と呆れちゃったっていう話でした。


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その270 すべては対人関係の悩み

2016/03/19 15:09
お久しぶりです。
「保育園落ちた」とか「中学生の自殺」とか「二人産めの校長」とか,子どもに関係するニュースだけでも気のふさぐ日々で,なかなか更新の気合が入りません。

でも,更新をサボっていても,けっこうブログの見てくださる方が毎日あって,もうちょっと続けようかなあと思う毎日でもあります。

中でも「しんどいクラス」「学級崩壊」「立て直し」などをキーワードからこちらにおこしになる方が毎日何件もあるっていうのが,うれしいようなツライようなところです。
私の書くものが何かのお役に立っていればうれしいんですけれど。

さて,ETVの「100分de名著」の2月はアドラーの「人生の意味の心理学」でした。
面白かったよ。
私がアドラー心理学と出会ったのは,かれこれ20年ほど前になりますから,今回の番組内容は目新しいものではなくて,「ああ,そうだよね」っていう確認みたいにして観ていましたけれど,学校の先生方には観てほしいなあと思いましたね。

アドラー心理学によって,私の対人感覚やものの見方はえらく変わったし,子どもを含めて私の周りの人たちとの関係づくりにも本当に役に立ちました。
私が曲がりなりにも学級崩壊もなく子どもたちとの毎日を過ごしてこられたのは,アドラーのおかげと言ってもいいくらい。

「何度言っても言うことを聞かない」のは「何度も何度も言うから」かもしれませんよって以前に書いたんですけど(その135),それだって,アドラーから学んだことから導き出されるんですよね。

自分としては指導を頑張っているのに,子どもたちによい変化が見られない
      ↓
「押し」が足らないのかとさらに指導の圧力を強めても(何度も何度も),かえって子どもたちからの反発が強まる
      ↓
自分の思うようにならない子どもたちへの怒りが込み上げてきて,さらに強圧的に叱りつけたりする
      ↓
反発,さらに強まる

あかんわな,これ

こうなる前に「指導が入らないのは『指導の方法』が間違っているんじゃないか」って,考えてみてはどうでしょうって,私ならアドバイスしますね。

でもこれがまた,なかなか受け入れてもらえないのも事実。
今までビビらせて指導してきた方なら,「言うことを聞かないならもっと強くビビらせよう」ということは割と簡単にできても,「ビビらせるのをやめて別のやり方をしてみよう」というところにいくのがとっても難しい。

「プライドが許さない」のか「沽券にかかわる」のか「子どもたちに負けた感がある」のか…。

「やり方を変える勇気」が持てないのね。
そう,やり方を変えるには「勇気」がいるんですよね。
やり方を変えてうまくいく保証はない。だとしたら,あまりうまくないやり方でも,今までは成果を上げてきたやり方を続けていく方が安心である…ってね。

だから,行き詰まって困っている先生がいたら,やり方を変える勇気を周りがサポートしてあげることが肝要なんですよね。

春休みになって,新学期を前に,もし学級経営に行き詰まったり,子どもたちや保護者や同僚との人間関係…いやもしかしたら,自分の親きょうだいや我が子との関係にしんどさを感じている人なら,アドラー心理学の本を一度手に取ってみることをお勧めしますよ。

「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」と言い切っているくらいですから,お役に立つと思うけどな。

ああ,私のとらえ方の問題だったんだなって,心のつかえがとれるかも。


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その269 禁「すごい」令

2016/02/22 17:05
年度末になってきました。
このブログでは「キーワード」検索から以前の記事にアクセスしていただくことも多いのですが,久々に「ぼくたち わたしたち」から検索していただいた方がいらして,「あ〜,集団コールのシーズンなんやな〜」と思った次第。

そうですか,まだ言うたはりますか。「ぼくたちわたしたち」をね。「何それ?」な方はこちら→<その24
さて,そういう行事ではなくても,年度末には何かと「まとめ」とか「振り返り」をしなくてはならないことが次々出てきますよね。

で,『禁「すごい」令』ですよ(笑)

前にもチラッと書いたことがあるんだけど,テレビ見てるとなんでもかんでも「すご〜い!」で済ませる方がやたらと目につくんですけど。
地域や学校で何かのイベントがあって,テレビの取材で子どものコメントを取ってるのって,よくあるじゃないですか。
「どうだった?」(子どもでも「どうでしたか?」と言ってほしい)と訊かれて「すごかった!」っていうお決まりの感想。
見ていて,「すごかった」って言うぞ,言うぞ…,ほら,言った〜って感じになって,苦い笑いを浮かべてしまう私。

取材している方も,その一言でO.Kなんですね。

他にも「びっくりしました」ってやつね。

どちらも「おぉっ!!」という心の衝撃だけを口に出しているに過ぎないでしょ。
自分が目の前の光景や事象の「何」に「どこ」に「おぉっ!!」っと衝撃を受けたのか,もうひと押ししないとな〜と教員根性が出てしまいますよ。

授業や見学の後の感想文なんかに「すごかったです」と書いてくる子には,「すごく」と書き直して,そのあとにどんな言葉がくるのかをもう一度吟味するようにアドバイスすることが多かったですね。

「思っていた以上にすごく細かい作業でした」とか,「すごく大きな音が出て,体にひびいてきました」とか。

「すごく」は程度を表す言葉であって,それだけでは言われた側はわかったようで実はわからないということになっていませんか?
「すごく」の後に「どうであったのか」を説明する言葉をつないでいかないと,自分がどう感じたり考えたりしたのかを自覚できないまま,「すごい!」「すごい!」で通り過ぎてしまうような気がするんですけど。

言語化することでもう一度自分の認識を確認する作業って,大事な学習だと思うけどな。
そこに支援のカギがあると思うので,どんな言葉をつなげるかのアドバイスを。
「『すごい』ではアカンから,他の書き方してきなさい!」ではそれこそアカンよ。それ,指導とは言わない。

ま,そもそも大人が「すごい!」で日々O.Kだっていう認識だもんな。

だからこそ,子どもたちには多様な感受性と確かな表現力を身に着けてほしいと思うし,せめて先生たちには「すごい」からもうひと押ししてほしいなと思うんですよね。

ってことで,「すごい」で済まさない『禁「すごい」令』,いかがでしょうか。
ここまででお分かりだと思いますが,子どもたちに出すお触れではなくて,自分自身への,ね。

もう一つ付け足しなんだけど,「すごいおいしい!」っていう物言いも,毎回引っかかるんだ。

すごくおいしい」でしょうに。チキンラーメンだって,「すぐおいしい。すごくおいしい。」ですぜ。

ま,言葉はころころ変わっていくもんなんでしょけど,「国語を教える」って人は言葉の使い方を,より意識した方がいいんじゃないかなと思うわけです。

すげーうぜーってか?あははっ。


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その268 ブログ開設5年を過ぎました

2016/02/07 11:28
昨年の「4周年記事」を書いてからの一年。記事を更新するペースがめっきり滞るようになりました。
それは現場を離れてからの時間がそれだけ過ぎたこともあるんだろうけれど,それよりも世の中に起こってくる(と発信される)あれこれに気持ちがふさぐことが年を追って増えてきた来たこととも大いに関係があるように思います。

今朝は,先日来から「やるぞやるぞ」の報道が過熱していた「北朝鮮のミサイル発射」が実施されたことで,もうすっかりそれ一色で,テレビを消しました。

どの国の誰にも被害がなかったのなら,何よりです。
国内外の支援が必要な人たちのことにも目を向けてあげて。

さて,節分の「恵方巻フィーバー」が終わりました。
ハロウィンの「仮装フィーバー」→クリスマスの「プレゼントとケーキフィーバー」→正月の「福袋フィーバー」を受けての「恵方巻フィーバー」(笑)

さて,お暇な皆さんあるいは社会問題に関心のある皆さんは「恵方巻 廃棄」をキーワードに検索してみて。

どんなものがヒットするかな。

節分前にあんなに「恵方巻」をあおったメディアはこういうのには目をつむったまま,次の「チョコ商戦」を報じるんでしょうね。

おかしいよね。
私が現役なら,子どもたちに「どう思う?」って問いかけてみたい。

次はバレンタインデーの「チョコフィーバー」へとつながるんですね。
(「バレンタインデーと小学校」については以前に書いたので,よかったらそれを見てね)

6年目も細々と続けていきますので,どうぞごひいきに


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その267 方言の捨てがたいニュアンス

2016/01/19 17:07
暖冬異変でいろいろと困っているうちの辺りにもとうとう今シーズンの初雪が舞いました。
まだチラチラと舞っているだけで,積もりそうにはありませんけれど。

さて,昨年末からの続きの「方言シリーズ」の続きです。
まずは私が小学校の頃の記憶から。

小学校3年生のとき,なぜか「作文」の時間だけ担任じゃない先生が教えに来てくださいました。
担任は書道の得意な先生だったから,「あんたとこの習字の時間とうちの作文の時間,替わってくれへんか」みたいなことだったのかもしれませんね。
「作文」なんて時間が時間割の中にちゃんとあったのも,もう今は昔ですけどね。

その「作文だけの先生」のことも嫌いじゃなくて,文章を書くのも好きだった私は家で勝手に書いてきた「お話」なんかも見せてほめてもらったりして,けっこうかわいがってもらっていた記憶が。

でもその先生にピシッと直されて忘れられないのが『京都弁的記述』でした。

京都弁では「行った」「言った」をちょっとした敬語的なニュアンスもこめて「行かはった」「言わはった」というような言い方をします。

子どもの時には自分の親のことを言う時でも「お母さんが言うたはった」「おばあちゃんがお参りに行かはった」みたいな使い方も当たり前のようにしていましたし,今の子どもたちでもそれは変わらないんじゃないかと思います。

で,作文に「お母さんが行かはりました」とか書いたわけだ。
そうしたら,それを「お母さんが行きました」と直されたんですよね。

さすがに小3の子どもだからか,「母が行きました」までの直し方はされなかった(笑)

でも私にはこの「指導」は強烈なインパクトがあったの。

なんというか,その当時の私にとっては親であってもそこはかとない「敬」の念があったんだと思う。
で,「行かはった」「言わはった」のニュアンスはそれを表す大事な表現だったんだと思うんですよ。

それを「『行きました』と書くのが正しい」と指導されて書き直しながら,親への「敬」をそぎ落としていく作業をしているようで,何とも言えない気持ちになったことが忘れられません。

「お行きになりました」とか「行かれました」みたいなたいそうな「敬語」ではない。
でもちょっとした「敬」であったり「丁寧」であったりするニュアンスをこめたい「行かはった」「来ゃはった」「言わはった」であったのに,「それは違います!」と言われたわけです。

それ以降は間違わないように気を付けて書くようになりましたが,「え〜,そんな書き方したら,あかんと思うんやけどな〜」という思いがなかなかぬぐえなかったという,私の子ども時代の思い出でございました。

で,この違和感はずう〜っと心のどこかに引っかかっていて,大人になってやっと,こういう「方言でしか表現できないネイティブな感覚の表現」って,もっと大事にされないといけないんじゃないかと思えるようになったんですよね。

だからこのブログでもざっくばらんな私の思いを書きたいという趣旨から「言うたはります」的表現をわざと使ったりもするわけで。

「方言」とひとくくりにされるけれど,今の日本のどこの地方の言葉でも,そこに暮らす人たちの微妙なニュアンスを伝える言葉は大事にされているでしょうか。

沖縄の言葉やアイヌの言葉はどんどん失われていくと聞きます。
辞書的に残っても,使える人がどんどん減っていると。

でも,沖縄やアイヌの人たちだけのことではないと思いますよね。京都だって,怪しいし。

言葉は使わなくては失われていくものですから,「これが標準語です」「これが正しい表現です」ということを教えるばかりではなくて,「その土地に伝わる言葉」や「その土地に伝わる表現の仕方」「伝えられ共有されてきた思い」にも意識を向けて,使い,伝えていく必要があると思っている次第です。

次回も言葉のことを続けて。


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番外編 年頭にあたり

2016/01/07 10:28
あけしまて おめとでう ごいざます

きちんと確認もせずに,「新年のあいさつの定例文だな」と思ってしまいがちな自分への戒めを込めて。

誤読の放置だけではく,テレビから流れてくる言葉に思わず「え,その言い方違うやろ!」とツッコミを入れることが,最近どんどん増えている気がします。
それがタレントさんとかならまだしも,きちんと訓練を受けているであろうアナウンサーの人たちまで,変なんだもの。

テレビの前でツッコんでもそれを耳にするのは夫くらいなんだけど,次々の流れる「ヘンな物言い」が「そのうち平気」になってしまわないように,「もう今どきはそうだよね」みたいに諦めて身を引くような自分にならないために,見逃さずツッコミを入れることを心がけています(笑)

「時間がないから」「たくさんの情報を処理しなければならないから」「やりたいことがたくさんあるから」ということを言い訳に,いろんなことが「雑」で「いい加減」に処理されていく風潮も感じています。

学校現場,どうですか?
私が「もう辞めてもいいな」と思ったのは,「やりたいこと」「やるべきこと」よりも「やれと言われること」「やりたくないのにやらざるを得ないこと」のほうが多くなったなあと強く感じるようになったことも大きかったのですが。

「やらざるを得ないこと」に振り回されて目の前の子どもたちへの丁寧な対応が疎かになるのは,教育の仕事としては本末転倒ということになりかねませんよね。

現場の先生がたは,どうぞ忙しさに心を失わず,体を壊さないようにお仕事なさってくださいね。

私自身も,あれもこれもと思わず,何を大切にしたいのかを見極め,丁寧に生活していこうと思います。

本年もどうぞご愛読ください


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その266 大晦日に思うこと 2015

2015/12/31 21:06
今年も大晦日を迎えました。
Eテレで第九を聴いています。

昨年の大晦日に,世の中の雰囲気に対して何とも言えない悪寒を感じて「こら,あかんで〜」という思うから<その248>を書きました。

あれから一年。
杞憂ではなかったと思います。

日本,なんか感じ悪いよね。

なかなか記事の更新が進まなかったのは,そういう世の中の動きに憂鬱になることが増えたせいもあったかと思います。

でも,だからこそ口をつぐまず自分なりの発信をしていかなければとも思い直している次第。

来年は気を取り直して,また「人を育てるということ」について少しずつ書いていこうと(今は)思っています。

「方言と標準語」について,もう一つ書くと言いながら年をまたいでしまいますけれど,でも年明けには書きますね。

今年もたくさんの方にご訪問いただきありがとうございました。
来る2016年が皆様にとって良い年になりますように。


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その265 続・方言と標準語のはざまで

2015/12/14 14:20
更新のスピードがなかなかアップしない。
もう師走も半ばになってしまいました。
今日はふたご座流星群の極大日ですけれど,曇りがちなので観察は無理かも。

さて,「方言と標準語」の話の続きです。

一年生の国語の教科書に載っていた(今でもあるのかな?)説明文に「てんとうむし」の話がありました。

テントウムシはアブラムシを食べるんですけれど,その中の文章に「一日に十ぴきぐらいたべます。」っていう一文がありました。

で,「十ぴき」を何と読むか…だ。

「じっぴき」か「じゅっぴき」か。

京都人なら「じゅっぴき」が標準ですわ。

当時,範読で「じゅっぴき」と読み下している先生もけっこういらっしゃったのかもしれませんが,普段は他クラス他学年の先生が「十ぴき」をどうお読みになっているかまでは詮索しませんよね。

ところが,漢字テストで「十ぴき」が出題された。

正解は…「じっぴき」

では「じゅっぴき」は誤答として減点するのか否か?…ということで,この問題がにわかにクローズアップされ,協議会だか研究会だかで話題になったのでした。

当時若輩者の私としては「じゅっぴき」も許容範囲でええやんか…と内心で思っていたのですが,ある先輩先生がきっぱりとおっしゃったんですね。

「『じゅっぴき』は方言です!」と。

正しい日本語を教えなければいけません!という決然したおっしゃりように「じゅっぽんでもいいですやん」な先生たちも引き下がらざるを得なかったわけです。

調べてみれは本当に「十の後に本・分・回など“促音化”する言葉が付く場合は『じっ』と発音する」ということが書いてありましたので,それ以降の私は正しく「じっぴき」「じっぽん」と発音することに気を付けてきました。

これ,子どもたちに「十ぴき」は「じっぴき」で「じゅっぴき」ではないよ念押しをしたところ,ある子が「ああ,塾ではそう習った」と言い放ったという苦笑もののオチまでついて,忘れられないエピソードになりました。

学校,ちゃんと教えろよって(笑)

でもね,近頃はNHKのアナウンサーでも「じゅっぽん」って言うてますからね

とまあ,京都でずっと過ごしている私の方言矯正の思い出話でした。

「一年生の国語」にも思わぬ落とし穴があるので,心して教材研究をしなくてはならないという教訓でもありました。

方言と標準語,年内にもういっちょ書きますね。


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その264 方言と標準語のはざまで

2015/11/26 14:57
お久しぶりです。
世の中に起こるあれこれが私にとってはあまりに不愉快至極なので,もうそういう情報を遮断して日常の些事に埋没してしまいたい気持ちが勝って,ブログもほったらかしになっていました。

時々様子を見に来てくださる皆様には申し訳ございません

ですがこのままではいけないと,気を取り直して原点に戻ろうと思います。

最近「方言のよさを見直す」というような話を時々耳にします。
でも,日本中の言語がどんどん標準化していって,失われてしまう恐れがある方言も多いんだということも。

それは,わかる。京都ことばも危うい。

私自身が子どもの時には使っていた言葉や言い回しをもう使わないということが多々あるし,おばあちゃんたちが使っていた言葉はとうに失われているものがたくさんあることも自覚しているし。

低学年の子どもたちが「ごっこ遊び」をするときだけ「標準語仕様」になることに仰天したのはもうずっと前だし。
それを初めて目撃した時は,なるほどなりきり気分で遊ぶ時はテレビドラマ的になるのかとそこは納得したんだけど(つまり日常生活とは一線を画している),その際にはイントネーションを使い分けられる子どもたちの能力に驚いたのでした。
子どもたちはもう「方言と標準語のバイリンガル」(笑)が当たり前なんでしょうかね。

そんな中,先生方は国語の音読のイントネーションはどうなさっていますか?

ま,文字は書いてあるんだからそのまま読むだろうけど,イントネーションは地方でとても違うはず。

「範読」のときには標準語のイントネーション?
それともご自分のネイティブ(?)なイントネーション?

私はねぇ,正確に言うと「出来るだけ標準語に近づけるべく努力してのイントネーション」でした。

だって,「正確な標準語」ってやつをちゃんと習ったことがないから「聞き覚え」でしかないのよね。
だから,どこか不正確なところがあるかもしれないから。

それでも「京都弁的イントネーション」のままの音読ではあかんやろうと思うから,できるだけ標準語に近いものをと心がけていました。

若いころはこれが内心イヤだったのを覚えていますよ。
「なにカッコつけてんねん!」と自分にツッコミを入れてしまいたくなって(笑)

でもそこは先輩の先生にも「正しい発音とイントネーションで」と言われたこともあり,努力はしました。

子どもたちにはイントネーションの強要まではしなかったけれど,範読の後について読めば子どもたちもイントネーションまでまねて読むわよね。

普段の授業では関西テイストなイントネーション(私は京都弁!と主張できる自信がない)なんだけど,何かを「範読」するってときには意識して標準語的に読もうと意識していました。

でも,正しく読めていたかどうかは不明

同僚の先生の中には「アナウンス教室」みたいなお勉強をなさっている方もいらしたけれど,私はそこまでの努力はしませんでした。

皆さんはどうされていますか?

「学校での方言と標準語」にまつわる話を次回も続けたいと思います。


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その263  ハロウィーン騒動

2015/10/31 09:41
おっと,気が付くと10月31日だ。更新サボりすぎだ。秋は忙しいんですよね。

ところで,なんなんですかね?ハロウィーン

勤めていたときには英語教育のこの時期のネタとして「 Trick or Treat !」なんてやってたけど,こんなに全国的な騒動になるとはね…なんてドン引きしているのは私だけ?

なんでも,経済効果は「バレンタイン」を超えたんだそうですよ。
大きな儲けを期待できるイベントがこの時期になかったので,ハロウィーンはそこにぴったり当てはまったんだと。

町内会でも「地蔵盆」より「ハロウィーン」だそうな。

でも,「なんで,それをやるの?」ってのがちっともわからないし,「なんでそれをやるのかわからないことをやる」ってのにはいちいち抵抗するような私なんかは,この9月末からの騒動にうんざりも年々増大ですよ。

テレビで誰かが「ハロウィーンよりも新嘗祭だろ!」って言ってたけど(ウケを狙ってのことだろうけど),本来の行事としてやってきた国の人たちに対して恥ずかしい感じは私もする。

カボチャのランタンを置くよりも「蘇民将来之子孫也」の護符だろうと思う(笑)

本来の意味なんかわからないけど,みんなで盛り上がれるし,楽しいならいいんじゃない?ってことで,そこに乗り遅れないように群がっていくのは,私にはできないなあ。

イヤでも調子を合わせていかなくてはならないような立場にいなくて,ホントよかった。

教師やってたら,子どもたちにどんなことしゃべっているだろうなって考えますよ。
楽しみにしている子どもたちに冷や水を浴びせるようなことは言いたくないけど,こういう商業主義にのせられていく世の中の風潮を「どう思う?」って考える場も持ってみたいなあとも思いますね。

今日一日「ハロウィーン的話題」がマスコミに大々的に取り上げられるんだろうけれど,それに押しやられる形で本当に知るべきことが報道の片隅に追いやられたりしないのかな(きっとする)と思う10月31日でした。

明日からはオレンジと黒と紫の氾濫から解放されるかな。


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その262 「ひざ当てなんて…」なハナシ

2015/10/01 18:14
法案のこととか国会のこととかこの国の政治家といわれる人たちのこととか,あれこれ学んだりびっくりしたり怒ったりしている間に10月になってしまいました。

たくさんのこと勉強した夏でした。
ネット空間にはいかに誹謗中傷が飛び交っているかということも。

「あの委員会採決」までにあそこで行われたことは,教師として子どもたちにどう説明したらいいのか…というか,説明できませんよね。

「手続きに瑕疵がある」としかね。いやその他にも「瑕疵がある」ことが多すぎて,それでも「成立しましたっ!」って言っちゃえばこの国の法律ができてしまう。憲法の解釈が変えられてしまうっていうところが恐ろしいと思います。

さて,組体操のことを書いていたのでした。

昨日も「10段ピラミッドが崩れて6人ケガ」というニュースが流れていました。
なんのことはない,「うちは気を付けてやるから大丈夫」みたいな学校がまだまだいっぱいあるってことですかね。

実は組体操のことについては,春先に書こうと思っていて,その時期にラジオでたまたま作家の川上未映子さんのトークを耳にしたのでした。

川上さんの甥っ子(お姉さんのお子さん)が組体操のピラミッドで,下段になった際に「ひざが痛かった」ということだったので,「ひざ当てをするべきだ」と言うと,そこにいたお姉さんやママ友さんたちに一斉に変な顔をされたというような話だったと思います。

「ひざ当てなんて…」っていう。

で,川上さんはその反応にえらく驚いて,「皆さんはどう思われますか?」という問いかけでトークを閉じられました。

なるほど,そうやね…と私は川上さんのご意見に賛同しますよ。

確かに子どもたちは「ひざに石が食い込んで痛い」と言っていました。
だから運動場でひざをついての演技をする際に,走って行って定位置について,ひざをつくときにその部分の砂を払いのけて,少しでも痛みを和らげようとする子どももいたけれど,それは「演技中に見苦しい動き」になるんですよね。

だから「古い靴下の先を切って,ひざ当てしてもいい」って言ったこともあったな〜と思いだしている。
「ひざ当て」なんて気の利いたものはなかった。(ってか,今だってその時だけのために「買え」とは言えないと思う。そして,私たちが許可した「ひざ当て」も,練習中だけのハナシで,「本番は外せ」ってことだったかも。記憶が曖昧)

でも,根本は「ひざ当ての是非」ではなくて,「そうまでして,ピラミッド自体をしなければいけないか?」ってハナシに行きつきますけど。

これも最近目にしたんですけど,「組体操の安全講習会」で,“成功させるための秘訣”として「『痛い』『重い』『もう無理』は言わせない」っていうのが指導のポイントみたいにまだまだ言われているっていう記事。→コチラ

あ〜〜,これな〜〜。実はこれが「ウラのねらい」だったりするのかも。

自分自身もこういう指導をされてきた記憶もあるし,こんなに濃くはないけれど似たようなニュアンスで指導してきたこともあったと認めざるを得ない。
でも,間違っていますよね。

痛くって,重くって,もうこんなのムリ!って思うようなことを,「我慢しろ!」って一方的にさせられるって,イヤやんか。

「好きなことだから痛くっても重くっても我慢できる!」っていうのとは,ちょっと違うやんか。

「みんな頑張ってるんだ!泣き言いうな!歯を食いしばれ!」とか

「出来ないって言うな!出来るまでやるんだ!やればできる!」とか

人生,つらいことから逃げずに向かっていく根性が必要なんだぞ!っていうことをわからせるのが肝要!みたいな教育観。

今の私なら「それで組体操って,絶対違う!」と胸をはって言えるけど,「根性教育」大好きな人まだまだいっぱいいそうだもんな。

そうやって「それの何が悪いの?」なんて言っているうちに,「お国のために身を粉にして貢献する国民を育成する」ところまで,あっという間に持って行かれそうな予感がする今年の秋の運動会シーズンです。

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その261 「組体操」をやってきたけれど

2015/09/06 14:09
9月になりました。
秋の運動会シーズンを前に,「組体操」の“高さ(段数)制限”の導入を大阪市の教育委員会が決めたというニュースが流れました。

名古屋大学大学院の内田先生などが「運動会種目としての組体操」についての問題点を指摘していらっしゃいますが,ここへきてようやくそれが「世間の話題」になってきたのかと思います。

でもすぐに「そりゃ危険やなあ。やめたほうがいいなあ」とはならないで,「なんでそんな制限するのか!」みたいなご意見の方もいらっしゃって,ちょっとした議論が起こっているみたいですね。
(でも,この社会状況の中では大きな話題にはならなそう)

組体操のことについては,以前にもちらっと触れましたけれど→<その64> 「運動会ってやつ」
私も何回か指導しましたよ。
ってか,6年生を担任して「組体操」に取り組まないで済んだことはなかった。

恥ずかしながら,「そんなん,学習指導要領にも載っていませんよ。やらんでもええんとちゃいます?」って言い切るだけの根性がなかった(反省)

それほど「6年生になったら組体操やるべし!」の無言の圧力は強かったように思います。
教師の中にもやりたい人はたくさんいたし,保護者や地域からの期待も大きいんですよね。

感動的なんだと。
子どもたちが普段の笑顔ではなくて,真剣な表情で,きびきびと動き,ピシッと静止する。
痛かったり,重かったり,怖かったりすることと背中合わせの緊張感の中で,みんなで力を合わせて一つの演技を作り上げる。

…って,それが感動を生んでるなら,ちょっとおかしくないか?

痛かったり,重かったり,怖かったりすることと背中合わせで頑張らなあかんことさせてるのか?

うん…。させてた気がする。

一番初めに指導した時には,3段タワーで転落してケガさせるようなことがあったらどうしようと,冷や冷やものだったことをはっきり覚えていますよ。
幸い,ケガはなかったけれど,練習中の転落はあった。
そばについていて,受け止めたけれど。

タワーとか,ピラミッドとかで下の段になる子どもたちの「痛い」「重い」に対して,「こういう体の使い方をすすれば痛くない」「ここに力を入れるとうまく支えられる」というような指導はしたけれど,最終的には「我慢させた」んだと思う。

「我慢して支える」ことに教育的な意義を唱える人もいるらしいけれど,そんなの体育?って思っちゃう。
思いながらも「No!」と言えなかった私なんだけど。
(この「我慢」については次回ちょっと掘り下げたいと思います)

とにかく,次に指導するときには「無理はさせまい」と心に誓った。

2クラスの学年で,隣のクラスの先生が「3段タワー」に拘っても,「うちは2段で」でやり通した。
全体の統一感なし(笑)

過度のパフォーマンスを求めなかった分,何度も何度も「もう少し!もう一度!」に時間を使ったり,別の教科の授業をつぶして体育の時間に振り替えてまでやらなくても済んだけど。

でも,運動会での見栄えは違ってくるのよね〜。
派手で高度な演技を指導する先生は,保護者の賞賛を受けるのよね〜。

見比べられて,親に「あんたのクラスはしょぼかったな」って言われるとすれば,それも申し訳ないなあと思っていたけれど,ま,そこは日頃からの私の指導方針を理解してくださっていたのか(笑),保護者からの苦情は耳に入らず済んだけど(実は陰で言われていたかも)。

例えば鍛えられた体育大学の学生さんとかの組体操なら,それはそれでやる意味も見せる意味もあるのかもしれないけれど(それも実はよくわからないけど),同年齢とはいえ体格も体力も気力もまちまちな小学生たちがあの芸当(あえて言うけど)をやって見せることが,そんなに教育的な意義があるとは思えない。

それでも「そんなん,やめたらどうでしょう?」とは言えないままだった私。
やるからには,きちんとした演技を…と頑張った私。頑張らされた子どもたち。
つらくて,嫌だった子もたくさんいただろうに。

それほど「ずっとやってきた伝統の種目だから」とか「保護者の感動をよぶ」とか「苦しいことを乗り越えて一つの演技を仕上げることで子どもたちが成長する」とかいう言葉には抗しがたい現場の空気って,ありましたね。

でも,組体操での事故によって大けがをして心身ともに傷ついた子どもたちがいるっていうことを知ると,心が痛みます。
私はそういうことに直面しなかったから,深く考えることなく何度もやってきたに過ぎないのかなと。

そういう意味で,今回の問題提起がもう一度「組体操」の教育的な意義について考え直すきっかけになればいいのにな,と思っています。

「現場の忙しさ」だとか「授業時間の確保」だとか「学力の向上」だとかいっぱい言われているんだから,「学習指導要領にも載ってないのに指導に多くの時間をとられて,大きなけがの危険も伴うようなモンはやめませんか?」って,今の私なら言うと思う。

で,「そうはいっても…」って,渋られるんだと思うんだけどね。

学校って,そんなこんなでやめられないこと,まだまだいっぱいあるし。
だから,教育委員会も「制限」くらいしか提言できないわけだし。

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その260 また集会に行ってきた

2015/08/30 09:35
今日は8月30日。
前回の記事をアップした後,いくつか書いてはまた消して,結局今日になってしまいました。

昨日の円山音楽堂に,私はまた夫と行ってきたんですよ。
京都弁護士会主催の「『違憲法案は廃案に』府民緊急集会」に。

前回の「京都アクション」よりさらに多い人出で,京都としては曇りでしのぎやすくなったはずなのに,人いきれで暑くて熱くて。

すっかりおなじみになった小林節さんの講演もあったんだけど,ちょっと思っていた感じと違ってもやっとした気分になったの。

面白おかしくお話になって,けっこうウケてたんだけど。

一番ぐっときたのはSEALDs KANSAIの学生さんのスピーチで,「ママの会」の方のお話もよかった。

こういう時のスピーチ,アピール,メッセージって,「揶揄」したり「皮肉」や「当てこすり」や「冷笑」[「揚げ足取り」って,あかんよなあって,また再認識した。

「自分の思いを素直に誠実に丁寧に訴える」ってことのほうがはるかに大切。

大勢の前でしゃべりなれている政治家さんや学者さんの言葉は,よく使いこなされているんだろうけれど,「よく聞く話」としてしか聞こえない。

ほんとうに伝えたいことを,聞き手にも敬意を払いながら伝えようとする気持ちが,聴く人にも伝わるんだろうと思います。

今更ながら…なんだけど。

学級であさっての方向を向いている子どもたちになんとか語り掛けたいと思う時でも,これはおんなじだと思うな。

言葉の軽さや表明の態度が話題になる今日この頃だけど。

で,今日は8月30日。

国会前の抗議行動に,遠くから声援を送りたいと思いつつ,今日は短め。

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